2006年08月29日
◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(四)
◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(四)
※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。
◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越後)と妙高山
越後には、新潟県中頸城(くびき・久比岐)郡妙高村大字関山の新羅明神を祀る妙高山関山神社がある。関山神社の祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと・関山大権現・聖観世音菩薩)・伊弉冉尊(いざなみのみこと・白山大権現・十一面観世音菩薩)・素盞嗚尊(すさのをのみこと・新羅大明神・騎獅文殊菩薩)の三神だ。
祭神の神々は国土創成の神である。国常立尊と天孫族に連なる伊弉冉尊と素盞嗚尊(『出雲風土記』では須佐能烏命、『古事記』は速須佐之男命)だ。素盞嗚尊については須佐の男という意味で、須佐之男ともされる。元々この秘仏・聖観世音菩薩(関山大権現)が新羅仏であることから、国常立尊ではなく、素盞嗚尊の垂迹として祀られていたようである。
神社の由緒は、元来は蝦夷といわれた人々(倭族)が妙高山を祀っていたが、その後新羅(加羅)系の人々が入植、越の地方は出雲地方や諏訪地方と同類氏族が統治していたようである。当地方には新羅系渡来人が居住しており、そのため、大国主命の父神とされるスサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞嗚尊)が祀られるようになったのであろう。
関山神社の地は、本来農業を守る水分(みくまり)神の聖地であったようで、それに渡来系の祖神である新羅系の神が合流したようである。妙高山山頂には八大竜王の棲む興善寺池がある。また、七月十七日に行なわれる神仏習合・密教・修験道が結びついた祭礼の火祭り(柱松の儀)は、妙高山の神に対する祭りのようだ。このように山と山上の池を神とする信仰は、日本神話の一つの類型である洪水神話、或いは山の峯への祖神降下神話や羽衣伝説もこれらと通ずるものがある。
また、越の国(越後)は出雲神や諏訪神とのつながり深く、例えばスサノヲ命の八俣の大蛇退治の条の「高志の八俣の大蛇、年毎に来て喫(く)へり…」や、素盞嗚尊の子(或いは五代の孫とも六代の孫ともいう)の大国主命は、糸魚川の沼河比売(ぬなかわひめ)へ求婚に訪れますし、二人の間にできた子神が「国譲り神話」の建御名方命(たけみなかたのみこと)で信濃の諏訪神社の主神とされる。
『出雲国風土記』の「国引き神話」には、「高志の都都の三埼を国の余りありや見れば国の余りあり…来縫える国は三穂の埼なり」とある。この地方は、古くより出雲との交易や出雲族の移住があり、朝鮮半島や中国大陸などとの交易により、早い時代から開拓が進んだ地方であったようだ。
妙高山関山神社の由緒から、元来は蝦夷といわれた人々(倭族)が妙高山を祀っていたようだが、その後新羅(加羅)系の人々が入植したようである。越の地方は出雲地方や諏訪地方と同類氏族が統治していた、いわゆる部族の都市国家があったようだ。
関山(関川沿)や奴奈川(姫川沿)にも、縄文時代遺構高地性の集落が存在し、硬玉や陶器の生産と流通が行なわれており、それが弥生時代中期頃から鉄を持った先進文化が伝来し、生産活動が発展していったと考えられている。新井市・板倉町・中郷村・妙高村の頸南地方に古代遺跡が集中していることからすると、古代はこの地帯が越後の中心地であり、国府もこの辺りにあった。
スサノヲ(スサノオ)
Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00│Comments(5)
│スサノヲの日本学
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この記事へのコメント
<古事記と風土記の一致表現>
出雲風土記の意宇郡安来郷(おうぐんやすきのさと)では、スサノオが「壁(かき)を立て廻らし、『吾が御心安平(やす)けくなりぬ』」(国巡りをした話で、ここに来たとき、心が落ち着くと言ったので「安来」という地名が付いたとしている)と書いてあります。
一方、記紀ではスサノオは「八雲立つ出雲八重垣(やえがき)妻込(つまご)めに八重垣作るその八重垣を」という有名な日本最初の和歌を読んだ話があります。どちらも「垣(壁)を張り巡らしたという」という意味で共通した表現となっています。
スサノオにとって「垣を張り巡らした」のは国境を確定し、王権を確立したと考えるべきなのでしょう。
出雲風土記の意宇郡安来郷(おうぐんやすきのさと)では、スサノオが「壁(かき)を立て廻らし、『吾が御心安平(やす)けくなりぬ』」(国巡りをした話で、ここに来たとき、心が落ち着くと言ったので「安来」という地名が付いたとしている)と書いてあります。
一方、記紀ではスサノオは「八雲立つ出雲八重垣(やえがき)妻込(つまご)めに八重垣作るその八重垣を」という有名な日本最初の和歌を読んだ話があります。どちらも「垣(壁)を張り巡らしたという」という意味で共通した表現となっています。
スサノオにとって「垣を張り巡らした」のは国境を確定し、王権を確立したと考えるべきなのでしょう。
Posted by もののふ at 2007年05月26日 21:07
いま、籔田紘一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と
安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと
考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。
Posted by 考古学ファン at 2008年12月02日 23:56
安来って、世界一の日本庭園がある足立美術館ってのがあるらしいですね。あと、ヤスキハガネと安来節が有名だ。ちょっと調べてみたけど、「鉄と神話と温泉」をテーマに観光地整備をやっているとも。温泉宿を基点に、古事記との関係のありそうなところを回ってみたいです。
Posted by 柳原 at 2009年09月23日 15:04
また覗きにきます!
Posted by スローセックス at 2010年10月21日 17:00
カバー相当する引く並べます竿檎でつく軸のカバー相当する所頑張ってかぶせる引く並べる竿。レプリカロレックスかぶせて相当するつるす並べる竿引く並べる竿の衝突段かぶせる入るつるす並べます竿の方孔、竿を並べて鈎を掛けて小さい添え板とリードの上で相当する並べるのを設置しているのをつるすでしょう。
たとえモジュールをついて時計の機械に入ってすでにかぶせて相当したのを捕らえるをモジュールと小さい添え板のモジュールなどについて時計の機械を入れるのを設置するのでもを捕らえて、ねじはしばらく回ったことがあって締めるなかれ、それから少しいくつかぜんまいを開いて、レプリカロレックスは小さい添え板の位置を調整して、雁木車歯とたとえ瓦の初めをついて状態に鍵をかける時つなぐ深さを歯でかじっておよそ0.2ミリメートルでもを捕らえて、瓦をついて角を下ろしが出入りするのが等しくて、最後に締めてねじに固定するのを回ります。
たとえモジュールをついて時計の機械に入ってすでにかぶせて相当したのを捕らえるをモジュールと小さい添え板のモジュールなどについて時計の機械を入れるのを設置するのでもを捕らえて、ねじはしばらく回ったことがあって締めるなかれ、それから少しいくつかぜんまいを開いて、レプリカロレックスは小さい添え板の位置を調整して、雁木車歯とたとえ瓦の初めをついて状態に鍵をかける時つなぐ深さを歯でかじっておよそ0.2ミリメートルでもを捕らえて、瓦をついて角を下ろしが出入りするのが等しくて、最後に締めてねじに固定するのを回ります。
Posted by レプリカロレックス at 2013年10月23日 12:43